駄文
つじつまを合わせ、わかりやすく正しく文章を書くということは思った以上に大変だ。普段web上に書いている事なんて日記程度のネタなので、別にわかりやすくなくてもつじつまが合ってなくてもいいのだ。その時の気分を反映して、そのまま擬態語を使ったり、感じた通りの言葉で直接表現して、自分だけ、関係のある人だけわかればいい。そこはそれで済むものだから。
だけど、誰かに実際に読ませる文となると、わけが違う。日本語の作文の授業は高校以来やっていない。それ以降は日記と称して書き散らかして来た。唯一かろうじて読ませようと書いたのは、18:00やBoston Diaryの内容だろう。程度の差はあれ、ライヴレポートなんかは気合い入れてるから、読んでもらおうと意識して書いたつもりではある。…いや、それもどうかな。ただありのままの感動を…と思った結果が、今読み返すと稚拙な文章にしか見えない。
私はいつも口頭で誰かに何かを伝える時、それが言いたいように伝わらない。コミュニケーション能力、これが本当に欠けてるんだなと思う。何度も書いて来た話ではあるけど、1つの事を正しく思った通りに相手に確実に伝える事さえ出来れば、ことの運び方がぜんぜん違うのだ。それがハナから出来ていない、そんな気がしてならない。自分のコンプレックスは全部そこにあるような気がしてならない。書き方だけではない。自分の一挙手一投足に感じられる無駄、道草、よそ見、わき見。日々の生き方、雑音だらけだ。だから書けないのだろう。
伝えたい事をはっきりと形にして、誰にでも私のいわんとしている事が理解してもらえるようになりたい。
その為にはここでは、たとえ日記だとしても、細心の注意を払った文章を書きたい。賛成なのか反対なのか、何も考えていないのか、わかっているのか、わかっていないのか。自分が何を言っているのか、自分で把握出来るようになりたい。もう駄文など書きたくはない。何の理由もなしに物事が存在する事はない。何かの意味があってそこにあるのだ。なんとなしに置いたもの、とりあえず付け加えたもの、そういう何も考えていない無駄な物をまず見極める能力を持ち、省いていかなければ。それから内容のつじつまが合っているかどうか、筆者の意図が伝わるかどうか検証する。そうしてはじめて、本当に「読ませる文章」が出来るのだ。
だけど、誰かに実際に読ませる文となると、わけが違う。日本語の作文の授業は高校以来やっていない。それ以降は日記と称して書き散らかして来た。唯一かろうじて読ませようと書いたのは、18:00やBoston Diaryの内容だろう。程度の差はあれ、ライヴレポートなんかは気合い入れてるから、読んでもらおうと意識して書いたつもりではある。…いや、それもどうかな。ただありのままの感動を…と思った結果が、今読み返すと稚拙な文章にしか見えない。
私はいつも口頭で誰かに何かを伝える時、それが言いたいように伝わらない。コミュニケーション能力、これが本当に欠けてるんだなと思う。何度も書いて来た話ではあるけど、1つの事を正しく思った通りに相手に確実に伝える事さえ出来れば、ことの運び方がぜんぜん違うのだ。それがハナから出来ていない、そんな気がしてならない。自分のコンプレックスは全部そこにあるような気がしてならない。書き方だけではない。自分の一挙手一投足に感じられる無駄、道草、よそ見、わき見。日々の生き方、雑音だらけだ。だから書けないのだろう。
伝えたい事をはっきりと形にして、誰にでも私のいわんとしている事が理解してもらえるようになりたい。
その為にはここでは、たとえ日記だとしても、細心の注意を払った文章を書きたい。賛成なのか反対なのか、何も考えていないのか、わかっているのか、わかっていないのか。自分が何を言っているのか、自分で把握出来るようになりたい。もう駄文など書きたくはない。何の理由もなしに物事が存在する事はない。何かの意味があってそこにあるのだ。なんとなしに置いたもの、とりあえず付け加えたもの、そういう何も考えていない無駄な物をまず見極める能力を持ち、省いていかなければ。それから内容のつじつまが合っているかどうか、筆者の意図が伝わるかどうか検証する。そうしてはじめて、本当に「読ませる文章」が出来るのだ。
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